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世界の前に立ち止まることはできるだろうか。
ただ、そこに現れたものを漠然と受け止めること。
そして、一切の判断を保留し、切断されたものとして対象を思考することに溺れること。
写真はその一端をある種担うことが出来るように思う。
たびたび、写真は事象や時間の凍結として語られ、実際それを教える場面(それが可能か否かはここでは問わないことにして)でも、シャッタースピードとf値を用いて数値化し、露出―露光―時間の中へ解消している。確かに、それ自身はフィルムや印画紙といった感光材=写真の支持体に定着されたものであり、そこに捕らえられたイメージは停止している。
だが、正確には作品のある部分が停止してそこに現れていると言うべきだろう。時間軸を追って考えてみても、イメージを認識する作者/鑑賞者双方の視線は片時も静止することは出来ようはずもなく、身体的な制約を振り切っての<見る>という行為が不可能な以上、われわれは未だかつて静止した世界そのものに出会ったことはない。
そこで我々内界の経験は、現在を去れば去るほど、あたかも他人の内界の経験であるかのごとき態度で観察が出来るように思われます。こういう意味からいうと、前に申した我のうちにも、非我と同様の趣で取り扱われ得る部分が出て参ります。すなわち過去の我は非我と同価値だから、非我の方へ分類しても差し支えないという結論になります。(夏目漱石「創作家の態度」『文芸の哲学的基礎』講談社学術文庫)
われわれ(作者/鑑賞者)がともに出会うのは、作品からふいに現れたイメージとしての他者である。
言うまでもなく作品とは、鑑賞者に対して何らかのきっかけとして機能し、そこからさまざまな方向へと思考を巡らせ関係を張り巡らすための、他者に出会うための、およそなんらかの装置の名称であるだろう。
水面に小石を投げ込むように、現実の世界へ向かって、作品というささやかなきっかけを投げ込んでみること。 |